小説という商品にUX的な考え方を持ち込めるか

 UX(ユーザーエクスペリエンス、ユーザー体験)を軸にした考え方というものがある。「顧客にどのような体験をしてもらうか」を重要視した考え方だ。
 たとえば、典型的なのが一昔前に(もう一昔と言えることに時間の流れの速さを感じる)流行したソーシャルゲーム。

 1.まずナビゲーターが出てくる
 2.赤、青、緑などの3陣営、あるいは3種族などから選択する
 3.ガチャを回させ、必ずSRレアリティのカードが出現する
 4.ナビゲーターが「すごい……天才か!?」と驚きプレイヤーを褒める

 ここまでがテンプレ。

 この流れの重要な部分は「まず顧客を褒める」「自分が選ばれた特殊な人間であると認識させる」ことで「せっかく手に入れたカードだからゲームを続けよう」とモチベーションを高めるところにある。ソーシャルゲームにおいて(今もなお)、「継続率」は主要なKPI(売り上げと密接に関わる重要な数値)だからだ。
 とはいえ手法もやがて飽きられる。そりゃまあ、雨後の竹の子のごとく現れた大量のソーシャルゲームが同じ形式なんだから「はいはいガチャね。リセマラやっか?」と顧客だって順応し、この手法ではモチベーションを高めるという目標を達成できなくなる。

 さて、ここからが今回書こうとしている内容だけれど、上記の通りUX的な考え方というのはとどのつまり、顧客に「いかに体験させて」「どのような気持ちになってもらい」「サービス事業者が設定するゴールを達成してもらう」ということに尽きる。
 一度、UXをお手軽に生む手法が開発されると、それを模倣することは簡単だ。「異世界に転移する」「神様からチートをもらう」「文明レベルの低いファンタジー世界で無双する」という流れもある種のUX発明品であり、小説の書き手はこの発明品をベースに「生産系」「内政系」「クラス転移による群像劇」などの味付けによってオリジナリティを創り出す。俺も異世界行ってストレスフリーな生活したいぜ……。

 それはさておき、小説全体、あるいは小説という商品にUX的な考え方を当てはめることは結構難しいなと最近思っている。
 世の中には小説を読む人間と読まない人間と、はっきり分かれていて、その一点においてお互いがわかり合えることはない。読む人間は読まない人間に大量の「オススメ」小説を投げつけ、読まない人間は「また始まったよ……」と辟易する。ただ、読まない人間もなにかひとつ「面白い」と思える小説に出会うと、途端に読む人間へと変貌するのでこの「オススメ小説爆撃」が行われるのである。まあ、読む人間だって最初は読まない人間だったのだから当然ではある。

 ここでソーシャルゲームへと話を戻すと、冒頭に書いたようなテンプレ的UXを繰り出してくるソーシャルゲームは最近少なくなった。ボタンをタップしたときの挙動や、ボタン配置の最適化によるUX(この場合はいかにゲームプレイ上のストレスを低減させるか)にこだわりを感じるゲームが増えている。スマートフォン自体が最適化の産物なので、当然スマホアプリも最適化の波に押され先鋭化していくのである。
 一時期流行り、今もなおゲームプレイの根幹にある「強いレアカードを引くと強くなれる」「ガチャゲー」的なもの。これは収益化するために必要なものとして根強く残っているが、それ以外の部分で新たなUXを生み出そうとする試みが増えてきた。
 グラブルはストーリー性を売りにし、白猫はテニスという味付けを持ってきた。クラッシュロワイヤルはPvPの駆け引きを軸としている。
 これらの最たるものはスマホVRだけれど、真価が発揮されるのはもうちょっとだけ先だろう。もしVRが成功したら、これを超えるUXはなかなか出てこないぞ。

 では、小説はどうだろうか。「本というパッケージにして売る」というやり口は十年一日である。人が手に本を持ち、目で文字を追うというUXはなかなか変わらない。これは電子化しても同じだ。(無論のこと印刷技術や書籍デザインの最適化はすでに済んでいるので現時点の書籍の、商品としてのレベルがかなり高度であるという前提である)
「本の中身が違うんだからUXは違うでしょ?」というもっともな意見もあるので、あまりこの点は突き詰めて考えられてこなかった。
 だがしかし、UX的に考えてこの「人が手に本を持ち、目で文字を追う」を違うものに変更できるのか? が今私の考えていることだ。
 comicoなどのサービスはキャラクターイメージを入れ込むことで文章を補完しようとしている。ノベルゲームはボイスを当て、BGMもあり、イラストもある。手前味噌だがamazonのオーディブルでは「朗読」というジャンルでビジネスを行っており、私も小説を提供している(小説なのに、今のところ本では売られず、朗読でのみ売られているという珍しい例だ)。
(https://www.amazon.co.jp/b/ref=s9_acss_bw_cg_Audible_5d1?node=4465463051)
 絵本やライトノベルという媒体も、ある種UXを多彩にしようという試みだ。
 こう考えてみると、なかなかどうして、多くのチャレンジがなされている……気がしないでもない。

 ただ、スマホアプリと比べるとどうしても、未開拓であるという思いをぬぐえない。スマートフォンの文字によるUXで「うおお、すげえ!」と思えたことが今までないのは、単に誰も挑戦していないからという理由だけではない。文字は、今のエンターテインメントの流行に対して逆行しているのだ。
 ゲームを例に取ると、VRを始め、アクションゲームはどんどん「UIがなくなっていく」傾向があるように思う。これは没入感を高めるためのものだ。「UIがないUI設計」である。
 文字はUIにとってきわめて重要なものだ。スマホアプリで、小さいボタンに、なるべく誤解を招かないような文言がちまちまっと配置されているのはみなさんご存じだろう。文字は、情報を伝えるのに非常に有効なツールだが、ことゲームにおいては没入感を損ねるし、デザイン上どうしても邪魔になる(ダサイ)ことが多い。
 文字の集積である小説は、そう考えると、「デザイン化して読み手に新たなUXを与える」という試みにおいては、そもそもあまり向いていないのでは、と思えてしまうのだ。

 だが、試みはまったく行われていないわけでもない。ようは、「発明品」ができていないのだ。「うおお、すげえ!」となるようなUXを与えられるサービスが出てくれば、(短時間でキャッチアップされ模倣されるだろうが)「本というパッケージを売る」ビジネスだけでなく、あらたな文字文化のメインストリームとなる可能性もある。
 UXの側面から論じるにはまだまだ未開拓のテキスト分野。もっといろいろな可能性を模索していきたいし、いろんな方に模索して欲しいと切に願う。小説はもっといろんな楽しみ方ができるはずだ。

 ……その結果「やっぱり本がいちばんだよな」となるのであれば、ま、それはそれで。
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今年の抱負 2016年

 あけましておめでとうございます。今年もがんばって参りたいと思います。
 さて、新年早々――というか昨年後半くらいからつらつら考えていたんですが、今年の抱負はこれで行こうかと思います。

 一、今後、自分が腰を据えて取り組むべきテーマを設定する
 二、堅実に生きる
 三、大過なく過ごす


 先に二と三についてなんですが、昨年があまりにいろいろあったので、自分自身が浮ついている感触があったんですね。こういうの、ほんとによくない。いずれ大きなミスか事故を起こすと思いました。「謙虚に生きる」ことはなにより重要なので、わざわざ目標として「堅実」「大過なし」を挙げました。勇躍すべきときは放っておいてもやってくる(たぶん)ので今は火中の栗を拾うよりも穏やかに過ごせるよう環境を整えていくことを重視したいなと。
 で、一ですが……実はガキのころ、なんとなく自分は三六歳で死ぬと思ってたんです。今私、三六歳なんですけども。まあもし死んだらそういうことなのかと思っておいて欲しいんですが、それはさておき、この「俺はいずれ死ぬ」という感覚を生々しく覚えたんですね。そこで――そろそろ、持てる力の全力を注いで追うべきテーマを見つけないとダメだなと。
 もちろん小説を書くのに全力投球しているんですが、その全力を積み重ねていった先、自分自身が命の炎を燃やしてなにをなしてきたのか、なすべきなのか、こういうことを考えておきたい。そのためのプランというか骨子というか指針というか、なんでもいいのでつかみたい。だって、ねぇ、「お前の人生ってなんのためにあるの?」って聞かれてすぐ答えられます? 無理でしょ? でも手がかりくらい持っておきたい。それを見つけるのが今年かなーって。
 一八歳のみぎりに志向した「小説家になる」という目標は結構前に達成したので、次はいい加減「小説家になってなにをなすか」を決めなければならない。と、そういうことです。
 今年もよろしくお願いします。
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今年の抱負の総括 2015年

 最初に謝っておきます。申し訳ありません。途中で書き留めるのを止めてしまって(しかも理由が「面倒くさいから」)、今年の抱負は達成できていません……。
 そんな抱負がこちら。

・毎週1冊、趣味の読書

 んん〜〜〜ふつうに考えれば楽勝ですよネェ〜〜〜〜〜〜? 読むだけ。感想を書くでもない。仮にも本を出して口に糊している作家ですよ。こんなの楽勝のはずですよネェ〜〜〜〜〜〜〜〜?
 なんでかわからないのだけれど、6月のある日、「あ、もう本のタイトルをメモするの止めよっ」と思っちゃったんですよね……。今さら分析すれば、会社で大変だったからだと思うけれども、ともあれ、抱負を達成することはできませんでした。いい社畜であろうとすること、いい作家であろうとすること、いい父親であろうとすること、いい夫であろうとすること、いい人間であろうとすること、抱負を達成しようとすること、これら全部を追いかけても無理なんだと知りました。来年は、やっぱり「出す本の数」とかにしたほうがいいかな……。
 せめてもなので、6月までメモした書籍のリストを掲載してお茶を濁します。
 ※日にちは読了日。

1/3
「地方にこもる若者たち 都会と田舎に出現した新しい社会」阿部真大・朝日新書
1/18
「フィルム」小山薫堂・講談社文庫
1/23
「日本怪魚伝」柴田哲孝・角川文庫
2/1
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学」山田真哉・光文社新書
2/9
「戦時演芸慰問団『わらわし隊』の記録 芸人たちが見た日中戦争」早坂隆・中公文庫
2/15
「笑う風 ねむい雲」椎名誠・集英社文庫
2/23
「老猿」藤田宜永・講談社文庫
2/28
「パーク・ライフ」吉田修一・文春文庫
3/9
「面白くて眠れなくなる数学」桜井進・PHP研究所
3/12
「三人の悪党 きんぴか1」浅田次郎・光文社文庫
3/17
「コリーニ事件」フェデルナント・フォン・シーラッハ(酒寄進一訳)・東京創元社
3/29
「血まみれのマリア きんぴか2」浅田次郎・光文社文庫
3/31
「異端の統計学ベイズ」シャロン・バーチェ・マグレイン(冨永星訳)・草思社
4/2
「真夜中の喝采 きんぴか3」浅田次郎・光文社文庫
4/8
「犯罪小説家」雫井侑介・双葉文庫
4/26
「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」斎藤環・角川書店
4/28
「男の野外肉料理大全 OUTDOOR GRILLS BOOK」BE PAL
5/9
「人間の建設」小林秀雄、岡潔・新潮文庫
5/10
「流れ星と遊んだころ」連城三紀彦・双葉文庫
5/13
「しんがり 山一證券 最後の12人」清武英利・講談社
5/15
「予知夢」東野圭吾・文春文庫
5/18
「容疑者Xの献身」東野圭吾・文春文庫
6/3
「人事と法の対話 ――新たな融合を目指して」守島基博、大内伸哉・有斐閣
6/6
「悪魔の取引 ある投資詐欺事件のストーリーで学ぶ金融入門」アンドレアス・ロイズ(田口未和訳)・阪急コミュニケーションズ

 こんな感じ! おすすめはどれかと聞かれれば「全部面白かった」と答えるしかない。わりと雑食で、わりとなんでも楽しめちゃう。リストには書いてないけど、ライトノベルだとカミツキレイニーさんの「七日の喰い神」とノギノアキゾウさんの「ジョーカーズ!」が面白かったのでみんな読むといいです。
 こうしてリストだけでも読み返すと、「ああ、これ読んだナァ」と思えるし、読んだときに感じたこと、目の前に現出した景色が、不意によみがえってなかなか面白い体験です。小説などの文字媒体は、マンガや映画などと違って読み手の想像力に任されているため、とてもプライベートな体験です。だからこそ感動は自分だけのものだし、その熱量を誰かに伝えたくなるのかもしれません。
 忘年会みたいなノリで最近飲みに行って話すのは、「今年は怒濤の1年だった」と。退屈しなくて済んだけど、心が磨り減ったような感覚があります。ちょっと疲れたかも。とはいえこれくらいの経験をしないと、書くものに生きてこないのかなとも思ったりします。
 2016年はどんな年になるかな。
 皆さん、よいお年をお迎えください。
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欲求と、マジな意味での自己実現

 この1年間、ブログの更新頻度が下がっていた。今年は私自身が多くのことを感じ、考えすぎたせいで、1つの話題にフォーカスしたブログという形式は自らの考えを発露する場として合わなかったからだ。同じようにツイッターでもあまり発言がなかったのは、140文字にまとめようとするとどうしても自分の考えが「陳腐化」してしまい、書こうとしては消す、を繰り返すうちに書くという情熱が冷めてしまったせいである。たぶん、私の中でその「書こうとしていたこと」が定着していなかったんだと思う。雨上がりの濁った湖沼みたいなもので、考えとは、沈殿して落ち着くとその本質が見えてくる。

 昨年末に男子を授かってから生活が一変した。人生観が一変するとまではいかないが、子育てという新たな体験を通じて、様々な考えを知り、考えさせられた。そのうちのひとつを書いておく。
 来年の今ごろはまた考え方が変わっているかもしれないが、それは今時点で自分が考えていること。ちゃんと不純物は沈殿し、1年かかったがけっこう澄みきった。

 人間は動物なのだと知った。めちゃくちゃ腹が減ったり、セックスや他者を支配する快楽に溺れたり、徹夜のせいでひたすら眠かったり――という生理的な現象ではなく、子を授かるということで私は人間が動物なのだと知った。男にとって、子とは、信じることでしか自らの子であると認識できない。これは腹を痛める女とは違うという意味だ。私も最初は、我が家にやってきた新生児が「誰かから手渡しされた他人の子」のような感じがしていた(ちなみに妻も同じ感覚だったそうだ。不思議なものだ)。それが、「自分の子」になっていく。これは単に「新生児のいる生活に慣れた」ことを意味しない。ふとしたタイミングで新生児と自分の感覚が共鳴し、その共鳴による「ポイント」みたいなものが溜まっていくと「親子レベル」が上がる。そうしてある一定のレベルに達すると「自分の子」になる。そんな感じである。なに言ってんだ? と思うかもしれないが、そんな感じである。
 人によってはレベリングの速度が違うのだが、とにもかくにもそんな感じである。

 子を持つと防衛本能が高まるし、ちょっとした危険にも神経を尖らせる。クライシス・ギアがあったら1日に何回シェルが発動するかわからない。子育てにも慣れてきたころ私たちは引っ越した。子どもが急病時に助かるからと、親の住む家の近くへ。すべてが子ども中心の判断になっている。
 一方で会社も忙しかった。詳しく書くと愚痴しか出てこないので書かないが、「なんじゃこれ、WOW●Wのドラマか?」と思うほどのめまぐるしい社内政争があって私の処遇も朝令暮改だった。
 一方で小説業もぼちぼち忙しかった。「東京戦厄高校第72討伐班」を書き、そろそろ発表できるが新しい作品を書き、新シリーズの打ち合わせも進めていた。
 こういう1年を送った結果、私は年の瀬にふと気がついた。
 私の、様々な欲求が消えかかっている。

 人間にはいくつもの欲求があるが、ここで書きたいのは「承認欲求」と「自己顕示欲」だ。この2つは作家業においてかなり重要だ。「誰かに読んで(承認して)欲しい」から小説を書くのであり、書いた以上は「読んだ人から絶賛されたい」「その結果有名になりたい」と思う(ふつうは)。だけれど今の私は、この2つの欲求が消えかかっている。
 動物としての人間の役割、子孫を残すということはとりあえず果たした。そして会社にもそれなりの居場所がある。家も車も買った(ローンまみれだけども)。こうなると、ほぼほぼ「満たされて」しまう。

 商業的にヒットして、金銭的に満たされた結果、書かなくなった(書く必要がなくなった or 自分の納得できるもの以外出したくなくなった)というケースとは若干違う。「商業で本を出し続ける」ことは「商業作家であり続ける」こととほぼ同義だ。ただ、たまに(私も過去にあったが)、「商業作家であり続ける」ことが目的化してしまうことがある。
「今年本が出なかった。これでほんとうに自分は作家と名乗っていいのか?」という謎の強迫観念に襲われるのである。こればかりは商業作家になってみないとわからない感覚ではないか。まあ、これに拍車をかける出版社主催の謝恩会みたいなのもあったりして、売れない(あるいは本を出せない)作家の劣等感を刺激してくるんだけど……それはともかく。
 本を出さないことにはヒットにつながるわけがないんだから、本を出すことには意義があると思っている。そのことにはなんの文句もない。だが、「商業作家であり続ける」ことが目的化され、自己顕示欲に追われると、心がけっこうツライ。「今年本を出してないから、みっともないから飲み会には出られない」なんて思ったりね。けっこうツライんだよ?

 私の、こういった欲求が消えかかっているんである。欲求が持つのは悪い側面だけではない。本を出すモチベーションになり得るからだ。ゆえに私は、小説を書くというモチベーションが失われている――というのはちょっと違って、「なんでもいいから本を出したい!」というモチベーションが失われている。
 本来の意味で、小説家になりたいと本気で思っていた過去に戻った気がする。高校生のみぎり、どうしても私は小説を書かなければならなかったし、誰かに読ませなければならなかった。どうしてだろう。今は、もう、わからない。だからまた考えなければいけない。
 よく言えば、欲求が純化されたのだと思う。生活の変化によって、小説業で満たす必要のない承認欲求や自己顕示欲が満たされた。結果、素っ裸の自分が小説と向き合っている感じだ。
 これもまた、けっこうツライ。素っ裸の私が信じ、書き上げたものが否定されたらと思うと怖いし、自分に向き合ってなにも出てこなかったらと思うと鏡の前で目をそらしたくなるし、そもそも素っ裸の自分をさらけ出すことは勇気が要る。肌の張りもとっくに失われているからね。

 でもまあ、向き合わなければいけない。というより今、向き合おうとしている。「書きたいもの」も過去にほとんど書き尽くし、書いた小説が30冊も超えると「書かなかったこと」を探す方が難しい。それでも、いろんな思いが沈殿した湖沼が干上がって、ぬかるみに足をすくわれても泥だらけになれば、輝く欠片のひとつでも見つけられるだろう。私は楽観主義者だし、小説家を志した18歳の自分に今の境遇を話したらこう言われると思うからだ。「お前、なに贅沢言ってんだよ……それが最高なんじゃん」と。
 あのころの自分にとっての、マジな意味での自己実現が、ようやく手に届くところに来ているのかもしれない。
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小説家的視点による家選び

 家を買った。と言うより建てた。正確には金を払って建てた。より正確を期すなら借金した金で土地を買い家を建てた。
 早速だが看板に偽りがある。住宅購入の決断にあたって「小説家的視点」は皆無であった。なぜなら私は喫茶店作家であり、スタバでMacBook airを広げてドヤ顔しながらでないと文章を書けないからである。つまるところ居住地に必要なのは、「近くに喫茶店があること」であり、喫茶店に求める基準はいくつかある(完全分煙とかね)が、家選びとは関係ないのである。
 ただ想像するに、自宅でなければ書けない人にとって、居住地の選択は死活問題であろう。私は今回の経験で、住宅やローンに関する様々な知見を得た。住宅購入を考えている知人がいたら是非連絡いただければ力になる。
 さあ、みんな家を買おう!


 と、これだけではあまりにあまりなので。

 一軒家かマンションの選択において考えたこと(私の場合):

●一軒家……
 ・喫茶店が近くにない場合、駐車場を自宅に作ることは必須
  自動車はことのほか便利で、雨でも雪でも「とりあえず原稿やってくっか」と思う心理的ハードルを下げるんである
  喫茶店作家にとって、「雨かよ……外行きたくないな」という状況は「書けない」ことと同義であり、結構な重要事なのだ
 ・書斎なんかどうせ使わないから作るだけ無駄
  俺の書斎は入るたびに300円かかる喫茶店なのだ
 ・湯船に浸かってアイディアがでる人は風呂には金をかけたほうがよい
 ・うんざりするほどある蔵書は新居に移ってもうんざりするほどあるので住宅とは切り離して考えるべき
  本棚は結構高い

●マンション……
 ・できうる限り駅近にすべし
  駅前の喫茶店が混雑していても「二駅くらい電車乗ろうかな」という選択肢が増える
  電車に乗って移動すると新しい発想が生まれることがある
 ・24時間ゴミを捨てられるところにする
  ゴミのことにわずらわされるのは時間の無駄
 ・背伸びしてでも都心部のマンションにしたほうがいざというとき売れるし貸せる
 ・上の住人がどたどたするとか横の住人が怖いとかそういうのも全部含めて運だと思える割り切りが必要

  もう最後のほう小説家と全然関係ねえな。
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三上 康明,ジミーサムP:原作
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