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参考文献について

 インターネットは万能ではない。そんな当たり前の真理を心底実感することになるのはそれこそまさにインターネットを通じて調べ物をしているときだ。小説を書くにあたって資料が必要になる場面では、インターネットでの調べ物は簡便でありこれがなくなれば商売あがったりというほどまでだ。だが、インターネットがすべてでは、ない。どうしても知りたい一次資料、二次資料は、結局のところ自分の足を使って現物を探しにいかなければならないのである。
 ふわふわした言い方になってしまったのでわかりやすい例をひとつ。
 世界的にウェブサイトというものが出来はじめたのは1995年あたりだ。ここからインターネットのトラフィック(通信量)は増え始め、以降はずっと増加し続けている(総務省HPより、2003年以降)。この主要因は無論のこと回線品質の改善、安価な提供によるもの、近年ではスマートフォンの増加だが、注意したいのは1995年以前のことである。
 たとえば2001年に流行ったものを調べるには、当時のブログ――というより「日記」を探し出すと生の声が聞こえてくる。だけれど、1994年以前はどうだろう? 1995年、地下鉄サリン事件の当時、私は中学生だった。だから記憶ははっきりしているし周囲の反応も覚えている。しかしその感想は「平均化」されたものではもちろんなく私固有の体験だ。さらにさかのぼれば1989年、「平成」に切り替わった日のこと。さらにさかのぼれば私の生まれる以前――安田講堂立てこもり事件のこと、東京オリンピックのこと。これらは、インターネットに「あらまし」は載っているものの「生の声」がほとんど載っていない類の情報となる。もし「生の声」を拾おうと思ったら、事件前後の新聞の縮刷を漁ったり、関係者の回顧録を漁ったり、当時を生きていた人に取材したりするしかない。(余談だが私は年長者と会話するのが好きだ。それは私の知らない世界を教えてくださるからであり、たずねると彼らは喜んで当時を語ってくれる)

 今の私の主戦場は「ライトノベル」というジャンルだが、ライトノベルに資料が不必要ということはあり得ない。多くの文献に当たり、そのほとんどがこちらの思惑外のものである。読んだ小説で、たまに「参考文献」と書籍の末尾に載っているものを見たことがあると思うが、実際には掲載された倍以上の書籍を読み込んでいる。たった一文、その「事実」について言及しているものを探すために10冊以上読むことだってある。一連のプロセスはひとつの宝探しであり、発見したときの喜びは著述業をやる人間以外には伝わりにくいかもしれない。

 参考文献を活かすに当たって必要なのは「捨てること」なのだからこれもまた皮肉だ。苦労して見つけた記述、自ら書こうとしていることとは関係はないのだがすばらしい名著、それらを容赦なく捨てていく。見失ってはいけないのが「自分の書くべき内容を忘れない」ということだ。至極当然のようで難しい。苦労して読んできた資料には、ノイズが多く含まれている。これらを濾過し、原著の意図を曲げず必要な情報だけ引用していく。
 この点、インターネットは便利かもしれない。「欲しい情報」を自分で検索するのだから、余計な情報はそもそも読まないでいいし、簡単に手に入れた情報は、捨てるにも抵抗がない。

 作家になってから専門書やノンフィクションを読むことが増えた。資料として読まなければいけなくなった、という理由が一番ではあるのだが一方で、読んでいくうちにどんどん面白くなって「あれも読みたい」「これも読みたい」となってしまったからだ。「事実」が持つ重さ。小説にはない読書体験が、そこにはある。
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