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欲求と、マジな意味での自己実現

 この1年間、ブログの更新頻度が下がっていた。今年は私自身が多くのことを感じ、考えすぎたせいで、1つの話題にフォーカスしたブログという形式は自らの考えを発露する場として合わなかったからだ。同じようにツイッターでもあまり発言がなかったのは、140文字にまとめようとするとどうしても自分の考えが「陳腐化」してしまい、書こうとしては消す、を繰り返すうちに書くという情熱が冷めてしまったせいである。たぶん、私の中でその「書こうとしていたこと」が定着していなかったんだと思う。雨上がりの濁った湖沼みたいなもので、考えとは、沈殿して落ち着くとその本質が見えてくる。

 昨年末に男子を授かってから生活が一変した。人生観が一変するとまではいかないが、子育てという新たな体験を通じて、様々な考えを知り、考えさせられた。そのうちのひとつを書いておく。
 来年の今ごろはまた考え方が変わっているかもしれないが、それは今時点で自分が考えていること。ちゃんと不純物は沈殿し、1年かかったがけっこう澄みきった。

 人間は動物なのだと知った。めちゃくちゃ腹が減ったり、セックスや他者を支配する快楽に溺れたり、徹夜のせいでひたすら眠かったり――という生理的な現象ではなく、子を授かるということで私は人間が動物なのだと知った。男にとって、子とは、信じることでしか自らの子であると認識できない。これは腹を痛める女とは違うという意味だ。私も最初は、我が家にやってきた新生児が「誰かから手渡しされた他人の子」のような感じがしていた(ちなみに妻も同じ感覚だったそうだ。不思議なものだ)。それが、「自分の子」になっていく。これは単に「新生児のいる生活に慣れた」ことを意味しない。ふとしたタイミングで新生児と自分の感覚が共鳴し、その共鳴による「ポイント」みたいなものが溜まっていくと「親子レベル」が上がる。そうしてある一定のレベルに達すると「自分の子」になる。そんな感じである。なに言ってんだ? と思うかもしれないが、そんな感じである。
 人によってはレベリングの速度が違うのだが、とにもかくにもそんな感じである。

 子を持つと防衛本能が高まるし、ちょっとした危険にも神経を尖らせる。クライシス・ギアがあったら1日に何回シェルが発動するかわからない。子育てにも慣れてきたころ私たちは引っ越した。子どもが急病時に助かるからと、親の住む家の近くへ。すべてが子ども中心の判断になっている。
 一方で会社も忙しかった。詳しく書くと愚痴しか出てこないので書かないが、「なんじゃこれ、WOW●Wのドラマか?」と思うほどのめまぐるしい社内政争があって私の処遇も朝令暮改だった。
 一方で小説業もぼちぼち忙しかった。「東京戦厄高校第72討伐班」を書き、そろそろ発表できるが新しい作品を書き、新シリーズの打ち合わせも進めていた。
 こういう1年を送った結果、私は年の瀬にふと気がついた。
 私の、様々な欲求が消えかかっている。

 人間にはいくつもの欲求があるが、ここで書きたいのは「承認欲求」と「自己顕示欲」だ。この2つは作家業においてかなり重要だ。「誰かに読んで(承認して)欲しい」から小説を書くのであり、書いた以上は「読んだ人から絶賛されたい」「その結果有名になりたい」と思う(ふつうは)。だけれど今の私は、この2つの欲求が消えかかっている。
 動物としての人間の役割、子孫を残すということはとりあえず果たした。そして会社にもそれなりの居場所がある。家も車も買った(ローンまみれだけども)。こうなると、ほぼほぼ「満たされて」しまう。

 商業的にヒットして、金銭的に満たされた結果、書かなくなった(書く必要がなくなった or 自分の納得できるもの以外出したくなくなった)というケースとは若干違う。「商業で本を出し続ける」ことは「商業作家であり続ける」こととほぼ同義だ。ただ、たまに(私も過去にあったが)、「商業作家であり続ける」ことが目的化してしまうことがある。
「今年本が出なかった。これでほんとうに自分は作家と名乗っていいのか?」という謎の強迫観念に襲われるのである。こればかりは商業作家になってみないとわからない感覚ではないか。まあ、これに拍車をかける出版社主催の謝恩会みたいなのもあったりして、売れない(あるいは本を出せない)作家の劣等感を刺激してくるんだけど……それはともかく。
 本を出さないことにはヒットにつながるわけがないんだから、本を出すことには意義があると思っている。そのことにはなんの文句もない。だが、「商業作家であり続ける」ことが目的化され、自己顕示欲に追われると、心がけっこうツライ。「今年本を出してないから、みっともないから飲み会には出られない」なんて思ったりね。けっこうツライんだよ?

 私の、こういった欲求が消えかかっているんである。欲求が持つのは悪い側面だけではない。本を出すモチベーションになり得るからだ。ゆえに私は、小説を書くというモチベーションが失われている――というのはちょっと違って、「なんでもいいから本を出したい!」というモチベーションが失われている。
 本来の意味で、小説家になりたいと本気で思っていた過去に戻った気がする。高校生のみぎり、どうしても私は小説を書かなければならなかったし、誰かに読ませなければならなかった。どうしてだろう。今は、もう、わからない。だからまた考えなければいけない。
 よく言えば、欲求が純化されたのだと思う。生活の変化によって、小説業で満たす必要のない承認欲求や自己顕示欲が満たされた。結果、素っ裸の自分が小説と向き合っている感じだ。
 これもまた、けっこうツライ。素っ裸の私が信じ、書き上げたものが否定されたらと思うと怖いし、自分に向き合ってなにも出てこなかったらと思うと鏡の前で目をそらしたくなるし、そもそも素っ裸の自分をさらけ出すことは勇気が要る。肌の張りもとっくに失われているからね。

 でもまあ、向き合わなければいけない。というより今、向き合おうとしている。「書きたいもの」も過去にほとんど書き尽くし、書いた小説が30冊も超えると「書かなかったこと」を探す方が難しい。それでも、いろんな思いが沈殿した湖沼が干上がって、ぬかるみに足をすくわれても泥だらけになれば、輝く欠片のひとつでも見つけられるだろう。私は楽観主義者だし、小説家を志した18歳の自分に今の境遇を話したらこう言われると思うからだ。「お前、なに贅沢言ってんだよ……それが最高なんじゃん」と。
 あのころの自分にとっての、マジな意味での自己実現が、ようやく手に届くところに来ているのかもしれない。
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