平成26年の抱負の総括

 振り返りたくはないが一年を振り返るのが年末というものなので振り返っておこう。今年の頭に立てた抱負は以下の通りである。

1.小説6冊程度の上梓
2.健康
3.チヌ(黒鯛)を釣る

 結論から先に書くが、全部ダメであった。小説は5冊しか出なかったし健康ではオールAが破れて「副脾」とかいうよくわからない先天性の脾臓プラス1のせいでBがついた(先天性なのに今まで顕在化しなかったのはなぜなのかという気がしないでもないがBはBである)。そしてチヌは釣れなかった。あんな魚は日本近海に存在しない。間違いない。
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本をプレゼントするということ

 かつて、プレゼントで本をあげるというのはオシャレであるという風潮があったようだ。プレゼントとなった本は当然あげる側の当人が読了済みであるので、その人自身の「センス」や「考え方」が問われる。つまり夢野久作「ドグラ・マグラ」や江戸川乱歩「芋虫」などをあげてしまうといろんな意味で大変なことになる。
 この習慣が復活すればうれしいことだなあと思うのだが近年のメディアと人との関わりを考えると難しいだろうなあとも思う。
 今の流行はGunosyに代表される「自分の嗜好にあったニュースを見つけてくるメディア」である。たとえばapple製品のニュースばかり見ていると、androidではなくappleのニュースがよりヘッドラインに上がってくる、学習型メディアのことだ。こういったメディアのメリットは「読む気もねえニュースを俺の視界に入れ込んでくるんじゃねえ」という当然の欲求を満たしてくれるところにある。
 既存のメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌)は――古い言葉で言えば「メディア1.0」――情報を集める記者を確保しているマスコミ各社の「主義主張」を織り込んだ構成で発信されていた。今は「メディア2.0」(好きな情報だけを集め、受信者が情報構成を選択できる。しかも簡単に!)であるので、マスコミの主義主張なぞは要らないとなる。この傾向はメディアだけでなく、余暇の使い方やそもそも人生としての生き方にも現れている。つまり「趣味は多様(ニッチ)化」し、「人それぞれの人生があっていい」というわけだ。こうなると最終的な価値基準は「カネ」になってしまうのでこれに代わる価値基準を発見しなければなんともまあ寂しい世の中になっちまうのだが今回書こうとしていることとはまったく、なにひとつ、一ミリも関係していないので割愛(の割りに結構書いた)する。

 さて本をプレゼントする話に戻る。こういった世の中で「私が読んでおもしろいと思ったし、あなたにも合うと思うから読んで」という主旨で本をプレゼントする行為は、あまりに合わないと思うのである。だけれど私はあえて「時代に合わない」ことをお勧めしたい。なぜか? 考えてもみて欲しい。本好きは書店へ行くではないか。パッケージを見て、帯を見て、タイトルを見て、著者名を見て、著者略歴を見て、あらすじを見て、ぱらぱらめくって香りをかいで、フォントをなぞってみたりして、「これ面白そうか? ん?」と五感をフル活用して自問自答して、結果「YES!」ならばレジへ赴き、「NO...」ならばそっ閉じするではないか。そうまでして、いまだ見ぬ「クッソ面白い本」と出会いたいと願っているではないか。
 しかし一歩引いて考えてみると、この過程すべてが「自分」に根ざしている行為である。「自分」がこれまで経験したモノサシでしか、見つけた本が「面白いかどうか」を判別できない。広く本を読もうとしており「私って読書は雑食だし〜」とか言っているくせに、実は「自分自身の嗜好」でしか本を選んでいないんである。私のことだ。猛省!
 そこで「他人」の登場である。「他人」ならば「自分」が考えもしなかった本を読み、面白いかどうかをこの広い世界のどこかで勝手に判断してくれている。その知識を借りない手はないではないか。ていうか貸して欲しい。面白い本教えて!(そしてできればプレゼントして!)
 本読みは面白い本に出会いたい。それを促進するのがプレゼントだ――という理屈は飛躍しすぎだろうか? この風習(風習?)が、また復活してくれることを願ってやまない。ヒュ〜ッ! 本をプレゼントなんてオシャレ〜ッ! とかけ声から始めていく所存である。
 しかも、である。プレゼントしてきた相手は「読了済み」なのだ。読み終わったあと本について語り合うこともできるというオマケまでついている。やらない手はない。ヒュ〜ッ! 本をプレゼントなんてオシャレ〜ッ!

 本を贈ることに抵抗がある――というか「ぼくの趣味嗜好がモロバレになって恥ずかしい……」と思ってしまう妹物ラノベ読みのあなた(私のことだ。むしろ書いてる)は、まずは音楽をプレゼントするでもいいかもしれない。
 かつて音楽はCDやレコードとしてパッケージされ、そのジャケットのセンスまで問われていたが、今はitunesで1,000円〜8,000円の価格帯ならすぐに贈れる(今調べた)。音楽はするっと聴けるし、その後もずっと……ずっとずっとずっと聴くことができる。なんかそれはそれで恥ずかしい気もするが、これって恋人同士とかがやるものなの? 別れたあと気まずいよな……そんなこと気にしたら恋愛なんてできないか……。

 ちなみになんでこんなエントリを書こうと思ったかと言えば、実はiPhone6に変えたとき、見慣れぬアルバム(買った記憶はない)が入ってたからだ。それは「U2」なのだが、これって「iPhone6にしてくれてありがとう!」というティム・クックからのプレゼントなのか(あるわけねえ)、「iPhoneってクールだよな。でも俺たちの音楽はもっとクールだぜ」というボノからのプレゼントなのか(あるわけねえ)、考えた末、「そう言えば音楽をプレゼントするっていいよなあ」と思い至ったがゆえである。三上康明はいつでもプレゼントを受け入れる準備があることを末尾に記しておく。
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農村写真記

 たまには撮った写真の話でもしようかと思う。
 伯母の住む山形へ行った。四月後半から五月の連休までは桜の盛りである。



 直接血のつながりはないが、おじい様おばあ様はともにご健勝で、今年卆寿を迎えられるという。めでたいことである。健康の秘訣はオトギリソウを漬けた焼酎だというがそれはともかく、この土地は農村である。兼業が多いのだが若者が家を発って農作業をされる方も減っているという。
 おそらく、日本の農村のどこにでもある光景なのだ。だけれど一カ月に一度も「土を踏まない」ような生活をしている私にとってはどこか懐かしくもある景色だった。
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後悔すべきこと

 悔いることの多い人生であった。
 ナイーブだった幼少期は言うに及ばず、高校も男子校だったせいで女性との距離の取り方もうまくなかった十代。大学では新たな出会いもほぼなくバイトばかりしていた。初めて入った会社では「どうせ俺小説家になるし」とうそぶいて温い仕事を選んでいた。会社のやり方が気にくわないと「辞める」と言い出し知人のつてをたよってフリーライターとは名ばかりのニート生活。その後訪れた不幸によって私はまっとうな道へと引き戻されるのだから、人生とはわからないものだ。
 今の会社に入るまでの私の生き様は、はっきり言えばクソだ。現在の生活においても後悔することは多いが、それまでに比べればはるかにマシと言える。作家になってからの私しか知らない人は、それ以前の痛々しい私を知らない。黒歴史ってやつかもしれないが、それはさておき。

 私は後悔することにかけては人より数段根に持つタイプだった。ぐちぐちぐちと悩み。夜寝る前に「あー……なんであんなことしたんだよ俺……」と悔やむこと一週間は固かった。
 今ではそういったナイーブな自分とうまくつきあえるようになったおかげで一週間も悩まずに済んでいる。だけれど後悔していた時間が無駄だったとも思わない。ひとつ学べば、賢くなる。私は何度も過ちを反芻し、脳裏に教訓を叩き込んでいたのだろう。

 私の精神的な転換が小説家デビューであったことは疑いない(と今では思う)のだが、直接的な原因は「俺がやらなきゃ本が出ない」と追い込まれたことだったように思う。小説を上梓することはエキサイティングな体験であり喜びも多いのだがツライ面ももちろんいっぱいある。数多の「ツライ面」が降りかかってきても、逃げ出さなかったのは、ひとえに私がナイーブだったからだ。ナイーブに起因する奇妙な責任感が「と、と、とにかくやらなきゃ……」となって自分を突き動かし、なんとかかんとか本を出し続けた。
 結局のところ自分を大きく変えたのは「仕事」なのだろう。子どもは環境や人によって大きく変わるけれど、大人になると環境や仕事ではなかなか変わらない。自発的に学び、自分で選択し、自力で達成するからこそ変わっていく。

 人によってその「変化」を与えてくれるものは異なる。仕事がつらいのは「その仕事が合わない」だけであり「他の仕事は天職」であることは十分考えられるのである。だから私の「後悔」に共感できる部分があり、今もってなお後悔にさいなまされている方がいるのなら、私は言ってあげたいと思う。
 後悔の負のスパイラルにはまり込まなくなる日は来る。でもそれは「やってくる」ものじゃなくて「自分でつかむ」ものだ。そしてそのために必要なのは「あなたに合う仕事」なのだ――と。
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平成26年の抱負

 原稿ばかり書いていた気がする昨年だが、今年はさらに書くことになりそうだ。おそらく「うれしい悲鳴」などと言えばいいのかもしれないが夢では毛がごっそり抜けて「悲鳴」をあげつつ目が覚めたり会社のストレス過多で二年ぶり二度目のじんましんを発症したりで「うれしい」ばかりではない。
 書きたくないものを書かされているのであれば「そんなに書くの止めたら?」と自分で自分に言うのであるが、今進めているのは「書きたい」と思っているものばかりなのでしかたがない。私が自分で書くしかないんである。
 そんなわけで今年も仕事漬けの一年になりそうだ。自分で自分を追い込まず、分を弁えて、やれることを十全に行うというスタイルで生きていきたいものである。

1.小説6冊程度の上梓

 わりと控えめに、6冊程度上梓できればいいなと思う。すでに1月24日に「クライシス・ギア」の3巻発売が決定しており、続巻も出る。特に3巻は出色の出来であるので期待していただきたい。2巻まで読んだ方なら必ず納得していただける内容だ。
 昨年12月に、他のシリーズの初稿も上がったので、これもリリースできるタイミングでしていきたいと思っている。
 それとは別に、今現在とりかかっている原稿があり、おそらく5月くらいに出せるのではないかと思う。これまでとは違うけれど、私らしい作品になってきていると思うので是非ご一読いただきたい。まあ、その前に、書き上がらなければいけないのだが。
 すでに進んでいるもので3冊あるので、プラス3冊はいけるんじゃないかな、というもくろみである。

2.健康

 大病を患わないこと、そして今年も健康診断オールA、この2つが抱負というよりクリアしなければならない目標だと思う。
 人間、身体を壊すとなにもできない。すべての敵は自分自身である。

3.チヌ(黒鯛)を釣る

「釣りかよ」釣りだ。

 そのほかにも「会社の部下をいかにして育てるか」とか「会社で自分にしかできない新しいプランを実行する」とか社畜要素満載の目標も考えたのだけれどそれらは書かない。会社のことを書いても仕方がないのではなく、実際のところ、それは「年頭の抱負」とするには私の中で弱い存在だからだ。
 自賛するわけではないが私は「時間の使い方」が上手いと言われる。では他人とは違う「時間名人」的なアイディアや創意工夫があるのかというと、ない。ただしこと最近「時間」についてこう思う。
 ――捨てる/あきらめる、ことが肝心だ。
 今、絶対に今、なさなければいけないことには必ずプライオリティーがある。「両方一番!」とかいうラブコメの最終回におけるヒロイン選択で結論が出ませんでしたみたいなのは、あくまでもフィクションの中にとどめておくべきで、現実ではきっちり順位をつける。もしその日、1位と2位ができて、3位ができなかったとしてもぐずぐずやり続けない。明日に回す。すっぱりあきらめる。
 人間の仕事には――特に小説を書く、というような頭脳だけの労働には――「いかにして効率よく頭脳労働の最適化をはかるか」という問題がつきまとう。小説を書くのにすさまじい肉体トレーニングをしたあとは絶対にダメで、朝食後からお昼までの時間が一番効率がよい。
 無論、人によって「時間帯」が違う可能性があるが、要点はその「頭脳明晰」――浅田次郎先生はこれを「天使のように冴え渡る」と書かれていて言い得て妙だと思う――の時間を、あまさず、一滴残らず、つぎ込むべきところにつぎ込むのだ。
 十代には十代の、二十代には二十代の、そして私のような三十四歳には三十四歳にしか書けないものがある。今この瞬間、書ける時間は、今しかない。一日サボればその一日を取り返すために一週間かけても、同じ一日は帰らない。
 私の大好きな「G戦場ヘヴンズドア」にもこうある。
「誰も『生き急げ』だなんて言ってくれない」
 私は自分で自分がなすべき黄金律を見つけ、それをさらに改良していく。もっとも譲れない一線でない限り、私はあきらめ、捨てていく。
 書きたいこと、書くべきこと、書かなければいけないことは山ほどある。
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